2019-12-05 第200回国会 参議院 環境委員会 第3号
イタイイタイ病、また水俣病を初めて公害認定をした園田直厚生大臣は、その発表に際して、企業より人命が大事と発言されたと伺いました。ごみ処理場はどこかに建設をしなければなりません。
イタイイタイ病、また水俣病を初めて公害認定をした園田直厚生大臣は、その発表に際して、企業より人命が大事と発言されたと伺いました。ごみ処理場はどこかに建設をしなければなりません。
先ほど園田直先生の、大先輩のお言葉ありましたが、企業活動を優先をして、人命、そして人の暮らしをないがしろにするということは絶対にあってはならない、その思いは、今でも環境省は変わりありません。
お父様は、厚生大臣、内閣官房長官、外務大臣、そして衆議院副議長を務められた園田直先生であります。 河浦町は、天草の下島の南部に位置する、山に囲まれた自然豊かな地域であり、先生はそこで中学生まで伸び伸びと過ごされました。そのころから、新聞を毎日精読され、激動する世界情勢を自分なりに読み解き、理解されていたそうであります。
実は、批准当時の大臣だけではなくて、一九七九年の三月十六日の衆議院外務委員会で、当時の社会党の土井たか子議員の質問に対して、当時外務大臣の園田直議員が以下のような答弁をされております。
八一年二月二十八日の当時の園田直大臣の答弁では、難民条約を早期に批准するために間に合わないから、とりあえず経過措置を設けず条約批准を進めて、後に早急に整備するという旨の答弁がございました。つまり、当時の政府も、条約の批准を急ぐけれども、この格差、差別というのは問題があるというふうに認識をしていて、是正しなくちゃいけない、そういうふうなお考えではなかったのかというふうに考えます。
その場所から、当時の外務大臣の園田直大臣、あるいは農林水産省は亀岡高夫農林大臣、官邸には佐藤信二副長官がおられた等々で、もう一気に動いたんですね、一気に。 そして、六月に行ったときに、そのときに田中角さんは亀岡大臣に、百億用意せい、これから何年もできなくても全部補償する、国が補償するから百億用意せいと。
たしか塩川大臣は福田政権ができたときの最初の官房副長官、そのときの官房長官が園田直先生。私は、昭和四十年から四十二年にかけて園田先生が副議長のときの秘書をやりました。そして、園田先生が御病気になられたときには本を書こうというようなことで、官房長官時代に苦労された話をいろいろ聞きまして、塩川大臣がおっしゃる話よりもっとひどい話を聞いております。
質問の相手が当時の園田直厚生大臣と公衆衛生局長の大谷藤郎さんでした。大谷さんは、皆さん御存じのとおり、現在国際医療福祉大学学長、一九九六年のらい予防法廃止に大変貢献をされた、今回の熊本地裁の裁判の中でも政府の責任を認める重要な証言をされた。
どんなことを言っているかというと、当時の園田直厚生大臣、答弁でこう言っています。「予算の面において、あるいは制度の面において、不十分な点がございまするが、この点は将来必ずこれを改善する」と。三十年以上前ですよ。年額三十八万円の予算措置が大変少ない、これは何とかするというふうに厚生大臣が答弁されているんです。 ところが、その三十八万円が三十数年たって五十二万四千円だと。
それに対して、当時の外務大臣は園田直さんでした、園田さんは、アメリカとの相談でありますが、向こう一年間は米国と台湾の条約が、これは米台条約ですね、今その条約があるからまだ何とも言えないんだ、こう言いました。
私は、かって一九七八年四月、これらの問題を明らかにして追及したとき、当時の園田直外務大臣は、「地位協定については、時代の変遷、世の中の移り変わりにつれてこれはよく話し合わなきゃならぬ」と強調して、「地位協定の中の不平等な日本の生命、人権に関する問題等を逐次見直していかなきゃならぬ」と国会の場で公約されたのであります。
そのときの外務大臣は園田直さんでした。園田さんはこう言いました。地位協定については時代の変遷、世の中の移り変わりにつれてよく話し合わなければならないと思う、その中できちっと主張すべきものは主張し、やるべきものはやると。
なおまた、参議院から知事の方に転身したいというような御意見がございまして、当時、知事の四選問題等もございまして、自民党県連としては国会議員に後任は一任というようなことで、当時、園田直先生と私がその一任を受けまして、そして知事に就任いただいたわけでございますが、大変ユニークな新しい構想を打ち出され、私たちも期待をいたしておりました。が、突然おやめになるということで、実はびっくりしたわけでございます。
○秋葉分科員 例えば、古いところになって申しわけありません、今覚えているのは、園田直外務大臣がかなり前におっしゃいまして、それから大平正芳総理大臣もおっしゃったと思います。
環境庁もまた、それまでは、環境庁がない時代から、園田直厚生大臣から三木武夫環境庁長官、大石武一環境庁長官、石原慎太郎環境庁長官、北川さん、ずっと皆さん水俣に行かれて、何とかしなければいけないと、いろいろな意味で、今環境庁長官が悩んでおるように悩んでこられた。
環境行政の汚点だ、こう言われておりますし、企業による許されない犯罪だ、こう言われながら、そしてあらゆる世論、マスコミが一日も早くこの水俣病問題については解決をしなければいけないということで、世界的にも注視をされながら、そして三木環境庁長官、大石環境庁長官、石原慎太郎環境庁長官、その以前には亡くなられた園田直厚生大臣、北川環境庁長官、いろいろ水俣に行って現地調査をされまして、そのたびこの問題については
もう時間がありませんから一つ一つ申し上げませんけれども、三木武夫環境庁長官、石原慎太郎環境庁長官、北川環境庁長官、大石武一環境庁長官、その前は園田直厚生大臣、たくさんの大臣の皆さんが来られまして、本当にこの問題、何とかしなければいけない、こういう気持ちで積極的な提言などもいただいております。大石武一先生などは、今、水俣病を解決する水俣病全国実行委員会の代表委員として頑張っておられるわけです。
私は、そのときに、何としても看護婦さんをふやして二・八を早く実現してくださいよと、ちょうど当時は園田直厚生大臣でございましたけれども、国立病院だけの問題ではございませんよと、本当に日本全体の看護婦さんの問題として十分な御対応をいただきたい、こういうことを訴えました。
しかし、今水俣病問題というのは発生以来三十五年を経過して解決がつかずに、その間、例えば、もう亡くなられましたけれども、当時の園田直厚生大臣が来られ、あるいはその後も大石武一環境庁長官、石原環境庁長官、近くは北川長官も水俣に来られたわけですが、何とかしなければいけない、こういう態度を明らかにしながら、今まさに水俣病は紛争の状態にあるわけです。
かつて水俣病が発生したとき、時の厚生大臣園田直先生が、何とかしなければいけない、こう言われた。その後も、例えば大石武一環境庁長官、あるいは石原環境庁長官、近くは北川環境庁長官など、たくさん来られました。大臣はいろいろ意見を聞いたりあるいは患者の実態を見ながら、何とかしなければいけない、こういうことを皆さん言われた。にもかかわらず、三十五年間未解決のままになっておる。